青春時代
父の大きな手に守られて、
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この濃い顔と社名からお気づきのように、私は鹿児島市出身です。大工の父が裸一貫で関西に出てきて、いまのさつまホームの地盤を築きました。78歳になる今も作業場で造作などの仕事をしている父は一見寡黙な薩摩隼人ですが、「大きなことをやってもともと」とか「面白おかしく一生懸命」など数々の名言(?)に見られるように、いかにも南国人らしいおおらかなところがあり、子供の頃から私のしたいようにさせてくれました。 私は何でもやるからにはとことんやる方で、小学生の時に近所のお兄ちゃんにあこがれて入ったボーイスカウトでは、炊事賞、裁縫賞、自転車賞、野営賞などを次々に獲得。高校生の時には大阪で初めての富士スカウトとなる栄誉に浴しました。この富士スカウトというのはそう簡単になれるものではなく、私の人生での最高の名誉として、いまも心の中で燦然と輝いています。 |
私の父で現会長の新留勇男。78歳でまだ現役です。 |
ボーイスカウトのリーダーとして、青少年の健全育成に取り組んでいた大学生の頃 |
求めていたのは
"未来"をに希望を見出すための家づくり
中学生になって自分の世界がほしくなってくると、月に1度くらいは自転車に乗って出かけ、キャンプするようになりました。高校生になると行動範囲が広がり、寝袋をもって日本全国を回りました。さらに大学生になると、自分が見知らぬ国でどこまで通用するかを試そうと、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドなどに出かけました。
もちろん費用は自分でアルバイトをして貯めたものです。父には自分の力で好きなことをしろと言われていました。アルバイトは中学生の頃から新聞配達をしていたので慣れたものです。でもどうしてもお金が足りなかった時、黙って援助してくれたのも父でした。
ある日、海外に行くために飛行機に乗っていた時のことです。すぐ近くに、いかにも有能そうなビジネスマンが座っていました。それを見てこの人のようになりたい、と即座に思いました。カバン一つで世界を相手に仕事をしている、俺もそんな大きな仕事ができる男になりたいと思ったのです。その時の印象は強く心に残り、その後の私の生き方に様々な影響を与えることになりました。